放送中のNHK大河ドラマ『光る君へ』で話題の藤原道長。劇中、その人物像や権力者としての行いを窺わせるエピソードが数多く散りばめられるが、歴史作家の島崎晋氏が注目するのは「藤原道長の仏教信仰」だ。「投資」と「リスクマネジメント」いう観点から日本史を読み解くプレミアム連載「投資の日本史」第4回は、藤原道長が金銭を惜しみなく投じて仏教を篤く信仰したことがわかる事実から、日本仏教や美術の歴史において道長が果たした役割を考察する。(第4回)
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「何をくださいますか。私だけがこの身を捧げるのではなく、左大臣様も何かを差し出してくださらねば、嫌でございます」「私の寿命を10年やろう」──NHK大河ドラマ『光る君へ』の第30回「つながる言の葉」(8月4日ほか放送)には、藤原道長(柄本佑)が陰陽師の安倍晴明(ユースケ・サンタマリア)に雨乞いを依頼する場面が出てきた。旱魃の被害があまりにひどいため、自分の寿命10年分を代償に、恵みの雨が降るよう祈願させたのである。
この一挙に限らず、『光る君へ』における道長は「一般庶民のことも気にかける仁愛の持ち主」として描かれている。その人物像が史実に近いかどうかはともかく、道長が陰陽道に代表される呪術に加え、公的な神事も怠りなく、私的な仏事にも精励していたことは当人の日記や、同時代の他の公卿の日記からも明らかである。
ただし、道長の仏教への関わりには、ほかの公卿のそれとは大きく一線を画するものがあった。
そもそも、大きな神社仏閣が参拝客・参詣者で賑わうのは広く門戸が開放された近世以降の現象で、平安時代の大寺社は庶民とは無縁の存在だった。荘園領主でもあった彼らは経済的に自立しており、僧侶・神官が奉仕する相手も特定の皇族や公卿に限られていた。
皇族や公卿は当時の上流階級だが、彼らと寺院との関わりは親族の命日に読経、願い事があるときに祈祷を依頼し、その対価として米や織物を寄進するという非常に淡泊なものだった。それでは、藤原道長はどうだったのか。
道長は皇族・公卿のなかで最も熱心な仏教信者だった
始祖の鎌足以来、藤原氏は南都(奈良)の興福寺を氏寺、同じく春日大社を氏神としてきたが、代を重ねるにともない、北家・南家・式家・京家の4家からさらに枝分かれが進んだことも影響してか、それら2寺社に対する道長の姿勢もかなり淡泊だった。そのことは、『光る君へ』の第33回「式部誕生」(9月1日ほか放送)と第34回「目覚め」(9月8日ほか放送)で描かれた、興福寺の要求に一歩も退かなかった道長の態度からも明らかだろう。
だが、道長は仏教や仏法を軽んじたわけではなく、それどころか当時の上流階級のなかで最も熱心な信者だった。先走った言い方になるが、日本古代史と唐代史を専門とする大津透(東京大学教授)は著書『道長と宮廷社会 日本の歴史06』(講談社学術文庫)のなかで、〈仏教信仰の上で新たな時代の先駆けとなった事例が顕著〉、〈生涯に行なった造寺造仏など多くの作善は、それまでになかった新しいものが多く、道長の進取の性格がうかがわれる〉とまで評している。