一刻を争う事態
常々「病院にはできるだけ行きたくない」「医療とはなるべく距離をおきたい」と公言してきた養老氏は“大の病院嫌い”として知られる。だが、ここ数年は病院通いと無縁だったわけではない。がん治療の本題に入る前に、5年前に養老氏が患った大病について触れておこう。
2020年6月下旬、養老氏は色褪せた診察券を片手に東大病院を訪れていた。最後に同病院を受診したのは東大解剖学教室で教鞭をとっていた57歳の時。「なにせ26年も前の診察券だから、古すぎて作り直さなければならなかった」と本人が笑うほど、時が経過していた。病院嫌い、検査嫌いの養老氏が80歳を過ぎて受診を決意したのはなぜか。
「この年の初めからずっと体のだるさが取れず、受診の直前3日間は眠くて寝てばかりでした。70kg以上あった体重もわずか1年で50kg台に減少していたので、持病の糖尿病が悪化したのか、コロナ禍の巣ごもり生活による鬱か、もしかするとがんかもしれない──と考えた。ともかく、今回は様子がおかしい。
私が日頃から大切にしているのは、健康診断や人間ドックの数値よりも、自身の“身体の声”を聞くこと。この時も、身体が『病院に行け』と言っていた。そこで、教え子である東大病院の中川恵一君に相談することにしたんです」(養老氏)
養老氏が頼ったのはかつての教え子であり、今回のがん治療のキーマンともなる東大病院特任教授の中川恵一医師(総合放射線腫瘍学)だった。両氏は「師弟関係」にあると同時に公私にわたって長年の親交があり、共著の執筆やテレビ番組での対談なども多い。昨年11月には養老氏との共著『養老先生、がんになる』(株式会社エクスナレッジ)を上梓した。中川医師が受診当日の様子を振り返る。
「先生はかなり調子が悪そうで、問診でも呂律が回らず、よく話が聞き取れない状態でした。そこで直ちに各科と連携し、原因特定のためCTや血液検査、心電図検査を行なうと、命に関わる心筋梗塞を起こしていることが判明したのです。
先生は検査後、待合室に戻り、付き添いの方々と『天ぷらを食べに行く相談』をしていたようですが、私が『先生、心筋梗塞を起こしています!ここを動かないでください!』と叫んだことで、一刻を争う事態と理解したようでした。胸の痛みの症状が出なかったのは、糖尿病による神経障害で痛みの感覚が鈍くなっていたからだと思われます」