なぜ中国共産党は路線を大きく変えることができたのか(時事通信フォト)
中国が世界第2位の経済大国へと成長する大きなきっかけとなったのが、1972年の毛沢東とニクソンによる「米中和解」だ。しかし、当時の中国は、毛沢東が主導した「プロレタリア文化大革命」の最中で、思想統一が最も強烈に図られていた時期でもあった。なぜ、中国共産党は路線を大きく変えることができたのか。中国に関する多数の著作がある社会学者の橋爪大三郎氏と元朝日新聞北京特派員のジャーナリストでキヤノングローバル戦略研究所上席研究員の峯村健司氏が語り合った(共著『あぶない中国共産党』より一部抜粋、再構成)。【シリーズの第21回。文中一部敬称略】
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橋爪:毛沢東がアメリカと手を結ぶのは、リアリストとしては大いにありです。でも、マルクス主義・共産主義として、毛沢東思想として、そもそもありなのか。
毛沢東思想でガチガチに武装した人びとが党中央に陣取っていると、毛沢東が決定しても、「帝国主義者となぜ手を結ぶのか」と納得できないだろう。日本だったら、「殿、御乱心」で、権力の座から引きずり下ろされてしまいます。でも中国だとそうならず、毛沢東の決定にみんな従った。
その理由は、ソ連との戦争がほんとうに切迫しているとみなが思ったからですね。人民解放軍はソ連と戦えば、敗戦して国がなくなると覚悟していた。その状況から中国を救ったのが、毛沢東の決断だったのです。人びとは、「帝国主義者ニクソンを手ゴマにして飼い慣らし、ソ連に噛み付かせた。さすがは毛沢東だ」と思ったんじゃないか。
こうして毛沢東は、国を守ったナショナリストになった。普遍主義であるマルクス主義やプロレタリア世界同時革命は、どうでもよくなったのです。これが毛沢東の本質で、中国の人びとはこれを支持したのだと思います。
峯村:毛沢東は共産主義的な社会革命からプラグマティックな路線に切り替えて、帝国主義と手を結んだということですね。理論よりも実際的なものを重視する「プラグマティック」という言葉は、中国人の気質を表わすのに最も適した表現だと思っています。だからこそ、文革のような過ちを犯した毛沢東のことを、中国人は完全には否定しきれなかったのでしょう。