誠実な対応がセナの心に届いた瞬間
「持参したヘルメットを手に取ったセナは『軽い』とその印象をすぐに語りました。150gの無線装置などの重量は減らせないので、とにかく本体の素材などを工夫。その結果1800gから400gの軽量化を実現できました。400gといえども、F1の強烈な“G”に対処することを考えれば、相当な減量でした」
当時からホンダの和光研究所では、飛行機素材の研究も行っていて、その力も借りながら、まさにオールホンダの体制で開発したヘルメットは、第一関門をクリアできたのです。もちろんそれだけではなく、これまでの2輪ヘルメットの開発で蓄積してきた技術を余すことなく投入。例えばヘルメット内の通気性をよくするためにWベンチレーションを装備したり、鼻の高いセナがかぶるときに、鼻が引っかからないように鼻部のパッドに凹み処理を施したり、可能な限りの技術やアイデアを投入したといいます。
「ところが『これで決まりか』と思ったところで、セナから“首に巻くように装着し、ヘルメットが動かないように固定するネックパッドはないのか?”という質問があったのです。残念ながら、その用意はなかったので正直、慌てました」
もちろんこの時点で日本にリクエストしたところで到着する頃には、テストは終了している。そこで川崎さん達は、近くの店で発泡ウレタンのマットレスを1枚購入し、すぐに制作に取りかかりました。
「ちょうどトイレの便座のような形にマットレスを成型し『急ごしらえだが、これを使ってほしい』とセナに渡しました。もちろん本番では確実に用意することを約束して」
それでもあまりのドタバタを見たセナが「心証を悪くしないだろうか」と急に不安になったといいます。それでもセナからの回答は、「来年は貴方たちのヘルメットを採用します」というものでした。後に分かるのですが「急な要望に対し、どんな形であれ即座に対応してくれたこと」が、川崎さんへの信頼につながり、セナは決断したのだと言います。
「1990年のレースではセナと、さらにアラン・プロストが抜けた後の新たなチームメイト、ゲルハルト・ベルガーのヘルメットを担当することになりました。初戦のアメリカグランプリではセナが幸先よく勝利。当然のように第2戦のブラジル・インテルラゴスへと向かうつもりでいた。ところが会社から『もう勝ったんだから、帰ってきなさい』と、帰国命令が届いたんです」
川崎さんとすれば「この先もホンダのF1スタッフとしてマクラーレンチームに帯同するつもりでいました。さらにマクラーレン・レーシングの総帥であるロン・デニスやベルガー、そしてセナとも『ずっと付き合うから』と約束していました。まだ初戦を勝っただけ。これで帰国するような軽い気持ちでここに来ているつもりはなかったのです」
さらに言えば、まだセナの要望に「100%答えていない」といった気持ちが強くあったのです。当然ながらセナの要望もあり、川崎さんはそれ以降もチームに帯同し、セナのヘルメットのブラッシュアップに努めることになるのです。
後編記事《アイルトン・セナの快進撃を支えた「ヘルメットマン」川崎和寛氏が回想するセナの素顔と“濃密な日々” 「時が過ぎるほどにセナへの思いは強くなっています」》では、さらなるヘルメットの改良の苦労や、セナの訃報に接した際の川崎氏の思いについてレポートしている。
1990年、初戦のアメリカグランプリで初めて「RHEOS」ブランドのヘルメットを被ってセナが勝利を手にした
【プロフィール】
佐藤篤司(さとう・あつし)/男性週刊誌、男性週刊誌、ライフスタイル誌、夕刊紙など一般誌を中心に、2輪から4輪まで“いかに乗り物のある生活を楽しむか”をテーマに、多くの情報を発信・提案を行う自動車ライター。著書に『クルマ界歴史の証人』(講談社刊)。日本自動車ジャーナリスト協会(AJAJ)会員。