今年、ブランド創立60周年を迎えたイタリアのスポーツカーメーカー「アウトモビリ・ランボルギーニ」。1963 年にイタリアのサンタガータで、創設者のフェルッチオ・ランボルギーニによって創設された同社は、どこか“反逆の香り”を感じさせるスーパースポーツカーとして、一種独特の輝きを放ちながら、世界中の多くのファンに支えられてきた。自動車ライター・佐藤篤司氏の連載「快適クルマ生活 乗ってみた、使ってみた」。今回は、ランボルギーニの60年の歩みを振り返り、その魅力を解説する。
ランボルギーニの誕生秘話
この日本でランボルギーニの名が知れわたったのは、1970年代中盤、熱狂とも言えるスーパーカーブームを作った漫画家、池沢早人師(当時は「さとし」)先生の作品『サーキットの狼』だと言うことに、異論を挟む人はいないと思います。主人公が乗るロータス・ヨーロッパをも軽く凌ぐランボルギーニ・カウンタックの勇姿。ドアを大きく前方に跳ね上げるシザードア(ガルウイングドアとは言いません)や、フロントノーズから突然持ち上がるようにして出現するリトラクタブル・ヘッドライト、その最高速度は300 km/h(あくまでも公称値)という、当時としてはなにもかもが規格外の存在として、少年達の胸を躍らせたのです。
数あるランボルギーニの伝説の中でも、有名なものを紹介します。
事業(トラクター製造など)で成功した創設者のフェルッチオが、当時すでに富の象徴だったフェラーリを買いました。しかし色々な不具合があったので、それを進言するためにメーカーに出向いたが、エンツォ・フェラーリに門前払いにされました。「だったら自分でもっと良い車を作ってやる」と1963年にアウトモビリ・ランボルギーニSPAを設立した──という話です。これがランボルギーニの「反逆」「反体制」といったイメージにつながったのだと思います。
ちなみに池沢先生は、フェルッチオが1993年に亡くなって10年ほど経ってから、ある自動車専門誌の取材でランボルギーニ夫人と会い、その伝説の真偽を確認したそうです。すると、彼がフェラーリオーナーとなり、いくつかの改善点を見つけたところまでは事実でしたが、その先は実に平和的に、2人とも大人の対応を見せたと言います。フェルッチオは改善点を書簡にしてエンツォに送ったのですが、その意見の採用を丁重に断られました。そこでフェルッチオは激高したり、根に持ったりせずにランボルギーニ社を興したのは、彼が商才に長けていたからでした。とくにクルマ好きだったフェルッチオは「高価なスーパースポーツカーの将来性」を見抜いていた、と夫人が明かしたそうです。少々の身びいきはあっても「これが真実であろう」と池沢先生から聞いたことがあります。
そんな成り立ちがあり、現在まで60年間、日本流に言えば「還暦」を迎えて、つぎなる新しいサイクルに入ったことになるランボルギーニ。現在はドイツのフォルクスワーゲン・グループに属しながら、今年は様々な記念イベントや重要な発表を展開しています。