アイルトン・セナから絶大なる信頼を寄せられた川崎和寛氏(右)
1980年代後半、日本は空前のF1ブームで中心にいたのが、F1世界選手権で3度の優勝を果たした天才ドライバー、アイルトン・セナだ。1989年オフから91年まで、その絶頂期のヘルメット制作を担当したのが、ホンダの2輪や4輪、そして用品デザインなどを手掛けていた川崎和寛氏(※崎は「たつさき」が正式表記)だ。セナ本人から「ミスター・ヘルメットマン」と呼ばれた日本人デザイナー・川崎氏は、いまセナについて何を思うのか──。
昨年、川崎氏と話をする機会を得た、自動車ライター・佐藤篤司氏によるシリーズ「快適クルマ生活 乗ってみた、使ってみた」。前編記事では、川崎氏がセナと出会い、信頼を得て1990年シーズンを共に戦うようになるまでをレポートした。つづく本記事では、さらなるヘルメットの改良の苦労と、セナの訃報に接したときの川崎氏の思いについてレポートする。《前後編の後編。前編記事を読む》
ロン・デニスに怒られたときにセナはお茶目な表情
「1990年シーズンはその後、セナのヘルメットに対して3つのバージョンアップを施しました。まずは第3戦のサンマリノでは、ヘルメット内側のパッドの色を白から、セナの母国、ブラジル国旗をイメージしたグリーンの生地に。彼の母国への思いと同時に、オリジナリティも表現するためで、セナはとても気に入ってくれたことは今も鮮明に覚えています」(川崎氏・以下同)
次はセナからリクエストのあった、額から汗が垂れてこないようにすることだった。
「私たちが世界で初めて開発したヘルメット用ベンチレーションの簡易的なものをセナのヘルメットの正面に付けてみました。すると(マクラーレン・レーシングの総帥)ロン・デニスが『誰の指示でやったんだ』と怒っているのです。実はF1ビジネスでは、スポンサーのブランド・ロゴをいじったり、周辺に穴を開けたりしてはいけなかったのです。ヘルメットの前面にベンチレーションを装備すると、まさにロゴを大きく浸食していたわけです。苦肉の策としてベントレーションを諦め、汗止めを額部分に装着して、なんと解決しました」
ただこのベンチレーションの装備は「セナから言われたこと」でした。それをロン・デニスに告げると、近くで聞いていたセナは、ちょっぴりお茶目な表情を見せながら「僕は知らないよ」といった様子だったそうです。
「3つ目の変更はスモークバイザーです。第4戦のモナコでのことでしたが、名物のトンネルに突入したら『瞬時に明るくなるバイザーを作ってくれ』という要望がありました。ホンダ、レオス(RHEOS)のブランドとしては、1989年から2輪用のバイザーで同種の技術を使って対応していたので、すぐに導入できました」
こうした改良もあってか、セナはどんどん戦績を上げていき、1990年のワールドチャンピオン、チームはコンストラクターズのタイトルを獲得できたのです。もちろんセナからの信頼は高まり、1991年シーズンも川崎さんは帯同。
「新たなシーズンは設計も作りも『完全なる4輪仕様』として開発。デザインはフィラッシュサーフェイス化を施して空気抵抗もギリギリまで低減。前年、苦労した汗対策については、今度はロゴなどに抵触しないように効果的なベンチレーションを装備しました。結果としてセナは7勝し、ワールドチャンピオンを、チームはコンストラクターズのタイトルを獲得できました」