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島崎晋「投資の日本史」

江戸時代に何度も禁止令が出た庶民金融「頼母子講」が目指した“誰も損をしない”仕組み 「熊野講」「伊勢講」「富士講」などは“旅行代理店”の先駆けに【投資の日本史】

熊野講、伊勢講、富士講…信仰的講のカギとなった「御師」の役割

 誰一人損をしない仕組みを目指したのは信仰的講も同じで、これには伝統的な民俗信仰を基盤としたものと寺社信仰に基づいたものの2種類がある。江戸時代に大流行した伊勢講による伊勢参りなどは後者の代表格だった。

 ほぼ例外なく、日本の由緒ある寺社は特定の皇族か貴族、武家の寄進もよって創建され、維持管理もそれら有力者からの寄進を頼みとした。しかし、時代が下るに伴い、皇族や貴族の資金力に陰りが生じ、武家には滅亡というリスクがつきまとった。寺社を存続させるためには大口の寄進者頼みではなく、小口の寄進者を大量に確保する必要が生じたわけで、その先陣を切ったのは熊野三社だった。その経緯について、前掲『日本大百科全書』には次のようにある。

〈熊野三山では平安時代の末期には御師(おし)の活躍があった。参詣の際に特定の僧の宿坊に泊まって祈祷を依頼するほどのものだが、その御祈祷師を略して御師とよぶようになり、各地の信者と師檀関係をもつようになったのである。のちに伊勢、賀茂、八坂、北野社などでも御師制度が取り入れられた。彼らの主任務は宿泊の手配や御札の頒布だが、全国各地に代参講を結成させる原動力となった点は見逃せない〉

 つまり、「御師」という神職がカギなわけで、伊勢神宮のそれだけは「おんし」と呼ばれた。伊勢の御師は毎年、祈祷の験(しるし)である祓麻(はらえのぬさ)や熨斗鮑(のしあわび)、伊勢暦、鰹節、伊勢白粉(おしろい)などの伊勢土産を持参して諸国をまわると同時に、新たな信者の組織化に余念がなかった。信仰的講の成立である(時期は室町時代初期とみられる)。

 信者に説いて講を作らせ、参拝目的の積立を行わせる。くじや輪番によって選ばれた代参者が御師の手配と案内のもと、伊勢への往復と伊勢神宮への参拝を果たすというのが伊勢講の仕組みだ。関所の通過や東海道最大の難所である大井川の川渡り、各宿場での宿や食事の手配など面倒なことはすべて御師がやってくれる。集団で旅をすれば防犯効果も高いことから、伊勢講による伊勢参りは、江戸時代後期には一大ムーブメントとなった。

御師に頼めば別料金で「予定にはない場所」にも行ける

 由緒ある寺社による講作りは江戸時代以前から行なわれていたが、遠隔地への旅は金もかかるし危険も多い。それが泰平の世の到来により、街道と宿場町の整備も著しく進んだ。

 残る課題は旅費の工面だが、くじや輪番による代参という手法を取り入れることでそれもクリアーされた。道中は何もかも生まれて初めての経験だが、旅慣れた御師が同行して、同じ講の構成員だけで団体を組んでいるから不安に陥ることもない。

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