当時、大蔵省ナンバーツーの財務官として日米構造協議を担った内海孚(まこと)氏の証言である。
「米国は非公式協議でGDPの10%という要求を出してきた。私は抵抗しました。しかし、米国側はアマコスト駐日大使が水面下で金丸さんにアプローチしていると伝えられていました。どうやら大使は『金丸さんのところに行けば、公共事業が広がる』というアドバイスを得ているようでした。そして金丸さんが橋本大臣にそういう電話をしてきた。
橋本大臣は断わったんですが、政治決着で公共事業拡大が決まった。海部首相とブッシュ大統領の会談で、向こう10年間で道路や港湾など430兆円の公共投資を行なうことを約束しましたが、私たち大蔵省は公共事業については意思決定に加わることができず、そんなおかしな判断には一切関わっていません」
その後、米国の“もっと増やせ”という要求で日本政府は200兆円追加し、公共投資基本計画の総額は630兆円(13年間)に修正された。当然、消費税収だけでは全く足りず、国債もバンバン発行していく。
「ジャンジャン使っちゃった」
そこにさらなる税収横流しの追い風が吹く。1993年に細川内閣が登場すると、GATTのウルグアイラウンド貿易交渉で日本はコメの一部輸入自由化を受け入れた。
政権を失って野党になっていた自民党はこれを猛烈に批判し、翌年、自社さきがけの村山(富市)連立政権で与党に復帰すると、米自由化で影響を受ける農家を支援するという名目で農水省だけで6兆100億円のウルグアイラウンド対策予算を組んで大盤振る舞いを始めたのだ。
当時の農水省ガット室長でウルグアイラウンド交渉にあたった山下一仁氏が振り返る。
「私の使命はコメの関税化(自由化)を防ぐこと。コメについては当時の国内消費量の8%の80万トンを関税ゼロで輸入するというミニマムアクセスを受け入れた。しかし、輸入量と同量のコメを飼料用や援助米として処分することにしたので、国内の生産を減らす必要はない。
米農家に影響は全くないものでした。しかし、村山政権になると自民党は巨額の対策費を実現させた。影響がないのに対策が打たれたのだから、この対策費にはいかなる理屈も正当性もなかった」