ブルペンを出る田中に、誰かが声をかけた。2位のロッテが敗れたため、この時点でマジックは1。勝てば初のリーグ優勝だ。抑えの経験がない田中は1死二、三塁のピンチを招くが、栗山巧、浅村栄斗の3番、4番を連続三振に打ち取って雄叫びを上げた。
歓喜の胴上げから1時間後、球場に近いパレスホテル立川で開いた記者会見に出席した三木谷は歓喜というより、安堵の表情を浮かべていた。東日本大震災から2年。ようやくペナント(優勝旗)を東北に持ち帰ることができる。だが三木谷には心の底からこの優勝を楽しめない理由があった。
会見を途中で抜けた三木谷はホテルの裏口で待つクルマに乗り込んだ。クルマが向かったのは三木谷の自宅ではなく羽田空港。離陸準備を整えた三木谷のプライベートジェットが主人の到着を待ち構えていた。機内には三木谷の父、良一の姿があった。
三木谷良一。日本の金融学を代表する泰斗である。専門はアメリカの金融制度で、日本の俊英が選ばれるフルブライト留学制度でハーバード大学に留学し、1966年に神戸商科大学の教授になった。
親や先生の言うことをよく聞き、成績優秀だった姉や兄とは対照的に幼い頃の三木谷は問題児だった。小学校では授業に退屈すると教室の中を歩き回り、先生にチョークを投げつけられた。あまりに態度が悪いので廊下に立たされることもしばしば。その度に同じ学校に通う姉は「私が恥ずかしい」と両親に訴えた。
だが良一はそんな三木谷を矯正しようとしなかった。兄が通った全寮制の中学・高校が三木谷に合わない、と判断すると地元の公立中学に転校させ、テニスに夢中になる三木谷を黙って見守った。金融学者の良一にとって、問題児の三木谷が日本を代表する金融機関とされた日本興業銀行の行員になったのは喜ばしいことだったはず。だが三木谷が「興銀を辞めて起業する」と言った時も、良一は反対はしなかった。
三木谷の最大の理解者である良一に、がんが見つかったのは2012年の11月。「見えないがん」と呼ばれる膵臓がんはすでに進行しており、手の施しようがなかった。
三木谷はネットを叩いて膵臓がんに関わる世界中の学術論文を読み漁り、その治療法に可能性があると見れば、プライベートジェットを駆って研究者や医者に会いに行き、意見を求めた。あらゆる人脈を駆使して名医を探し当て、良一を診断してもらった。イーグルスの優勝記者会見を途中で抜けたのも、良一をアメリカの病院に連れて行くためだった。
考えうる全ての治療法を検討した末、最後にたどり着いたのが光免疫療法だった。きっかけはひょんなことだ。楽天の創業期から楽天市場に出店しているワッフル・ケーキ店「R.L(エール・エル)」を経営する新保哲也が、三木谷の父ががんと知って連絡を寄こした。
「ウチのいとこが、アメリカで最先端のがん治療法を研究しているんやけど、一度、会うてみますか」
無名の楽天市場を共に育てた初期の出店者たちと三木谷は、いわゆる戦友のような関係にある。「新保の紹介なら」と三木谷はその研究者に会った。アメリカ国立衛生研究所(NIH)の主任研究員の小林久隆である。