3月は卒業式シーズン。コロナ禍により、その規模が縮小したり、出席者数に制限が設けられたりすることもあるが、卒業式が人生の門出において重要な催しであることは間違いないだろう。
時代とともに卒業式も変化しているが、式の核心とも言える「式辞」はどうだろうか。経験者に話を聞いた。
立教大学名誉教授・渡辺憲司さんは、定時制高校や短大、大学などの教員を経験。東日本大震災で卒業式が中止となった中高一貫男子校の校長のときに高校卒業生に向けた真摯なメッセージが、幅広い年齢層で大きな反響を呼んだ。
「いまは『本校に学んだことを誇りに』といったことは言う人がいなくなり、個人個人に向けて話をしています。私が卒業式の式辞で大切にしているのは、いろいろなものを背負い込んでいる卒業生に『いま衣を脱ぐとき』と語りかけ、真剣に思いをぶつけること。ロシアがウクライナに侵攻したいまなら“非戦”の意味を問い、理想を追う教育者として、先に行く背中を見せることです」(渡辺さん)
2011年3月14日の予定だった卒業式は、3日前に起きた東日本大震災で中止になった。その際に渡辺さんが「卒業式を中止した立教新座高校3年生諸君へ。」と題して送った校長メッセージを紹介する。
「誤解を恐れずに、あえて、象徴的に云おう。大学に行くとは、『海を見る自由』を得るためなのではないか。(中略)現実を直視する自由だと言い換えてもいい。中学・高校時代。君らに時間を制御する自由はなかった。遅刻・欠席は学校という名の下で管理された。又、それは保護者の下で管理されていた。諸君は管理されていたのだ。大学を出て、就職したとしても、その構図は変わりない。(中略)
大学という青春の時間は、時間を自分が管理できる煌めきの時なのだ。(中略)時に、孤独を直視せよ。海原の前に一人立て。自分の夢が何であるか。海に向かって問え。青春とは、孤独を直視することなのだ。直視の自由を得ることなのだ。大学に行くということの豊潤さを、自由の時に変えるのだ。自己が管理する時間を、ダイナミックに手中におさめよ。流れに任せて、時間の空費にうつつを抜かすな。(中略)鎮魂の黒き喪章を胸に、今は真っ白の帆を上げる時なのだ。愛される存在から愛する存在に変われ。愛に受け身はない」