財布に200円しかなかった
高橋兄弟はバブル景気を謳歌した。だが、バブル崩壊後、弟の二信組事件によりいっとき鳴りを潜めた。電通関係者はこうも付け加えた。
「治之さんは弟が逮捕されてしばらく鳴かず飛ばず。電通でも窓際に追いやられていました。ところが、日韓のサッカーW杯の前、スイスのFIFA(国際サッカー連盟)のゼップ・ブラッター会長のパイプを使って復活した。なんでも治之さんはFIFAが抱える金銭トラブルを解決したとか」
兄の治之は2002年の日韓サッカーW杯実現の立役者と絶賛され、やがて弟の治則も証券界で再びその名が取り沙汰されていく。
その高橋兄弟で、弟の資金繰りを支えたのが、ほかならぬ森下である。すでに取り壊されている旧アイチ本社ビルでは、二信組事件で公判中だった治則の姿を何度も見かけた。森下本人に聞くと、こう語っていた。
「高橋(治則)はカネがなくてね、このあいだ財布の中身を見せてくれたけど、200円しかなかった。10万円貸してくれとせがまれて、融通するうち、以前のような付き合いを再開していったようなもんかな」
森下もまた、バブル崩壊後の1996年2月に会社を閉じ、金融業から撤退した。しかしそこから1998年以降、再び不動産や株取引や画廊経営を始める。
多くのバブル紳士たちが消えていくなか、森下や高橋が復活できたのはなぜか。
バブルという名の狂乱景気が吹き飛んだあと、多くの企業が経営危機に陥り、倒産が相次いだ。貸金業から手を引いた森下はアングラマネーを操った貸金業時代に培ったノウハウや人脈をフル活用し、そうした企業を見つけ出し、資産を買い取っていった。
森下自身、新宿通り沿いの4丁目交差点付近で売りに出されていた10階建てのビルを購入し、そこを新たな拠点とした。日本興業銀行や日本長期信用銀行と並ぶ日本政府の政策金融機関・日本債券信用銀行(日債銀)系列のノンバンク「クラウン・リーシング」が所有してきたビルだ。バブル崩壊後、クラウン・リーシングが倒産し、ビルが競売にかけられると、森下はそこを逃さず、ビルを競り落とした。そこで新たに不動産・絵画取引の「イ・エス」を設立し、復活を遂げていった。