どんな場所でも「政治的な正しさ」が求められる時代。もし職場でマイノリティに対して差別的だと捉えられかねない言動をすると、「キャンセル」の対象となってしまうだろう。だが、誰もが納得のできる「政治的に正しい」振る舞い方は、そう簡単なものではない。リベラル化の進展で複雑化する社会の姿を描き出した新刊『世界はなぜ地獄になるのか』が話題の、作家・橘玲氏が解説する。
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人種や性別にかかわらず個人を評価する「カラー/ジェンダー・ブラインド」は、日本においては「多様性のある社会」を目指す基本になっている。だがこれはいまでは、現にある差別を隠蔽していると左派(レフト)から批判されている。
個人主義のイデオロギー(メリトクラシー)では、法的・制度的に機会の平等が保障されていれば、成功するかどうかは個人の努力で決まるとされる。成功者とは懸命に努力した者であり、社会的・経済的に恵まれないとしたら、じゅうぶんな努力をしていないのだ。
個人主義が「一人ひとりちがう」を原則にするのに対し、普遍主義のイデオロギーは「みんないっしょ」を謳う。肌の色や外見が異なっていても、誰もが人類(humankind)という同じグループの仲間なのだ。だとすれば、「白人」「黒人」などとグループ分けをすることは、かえって分断を煽ることになる。
個人主義と普遍主義は矛盾するわけではない。「みんなちがって、みんないい」(@金子みすゞ)のように、誰もが仲間であると同時に、一人ひとり異なる個性をもっている。これがリベラルな社会の大原則だが、社会正義の活動家は、これを「差別」の一形態で、現実の否認以外のなにものでもないとする。こうした「きれいごと」をいっていれば、リベラルな白人や男性は「差別」に対する個人的な責任から逃れることができるのだから。
これを、左派(レフト)の奇矯な意見だとして一蹴することはできない。
アメリカ社会では、初対面の相手と会ったときに、性別・年齢に加えて、肌の色で自然とグループ分けされる。それにもかかわらず、アメリカの学校ではカラーブラインドの教育をしているので、子どもたちでさえも、肌の色に言及することは無礼だと考える。集団のメンバーを説明する課題で、そのなかに黒人が一人だけいるなら、人種を指摘するのは明らかに有用だ。そんな場合でも、子どもたちは10歳になる頃には、人種について話すことを控えるようになるという。