中国共産党による「一党独裁」が続く中国。その歴史や文化、社会に精通する社会学者の橋爪大三郎氏と、元朝日新聞北京特派員のジャーナリストでキヤノングローバル戦略研究所上席研究員の峯村健司氏は、中国で現在まで権威主義的体制が続くことになる大きなきっかけが、毛沢東時代の「大躍進政策」とそれに続く「文化大革命」だったと指摘する。数千万人が犠牲になった未曾有の大惨事はなぜ起きたのか。(両氏の共著『あぶない中国共産党』より一部抜粋、再構成)【シリーズの第10回。文中一部敬称略】
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橋爪:新中国の始まりのころ、とにかく建国当時は、技術者も資源も足りない。そこでソ連から、技術支援のために大勢のロシア人に来てもらったり、援助物資を送ってもらったりした。
でもソ連にも、そんなに余力はなかった。また、実際につきあってみると、ロシア人と中国人はなかなかウマが合わない。すぐモメてしまう。結局、建国後10年ほどで、ソ連の技術者は帰国してしまいます。設計図ももって帰ったというから、ケンカ別れです。そのあとは全部、中国人が自力でやらないといけなくなった。毛沢東のいう「自力更生」です。
毛沢東が「大躍進」の号令をかけたのは1958年。新中国がスタートしてから間もなくのことです。この大躍進政策によって、中国はたいへんなことになりました。
峯村:毛沢東の大躍進政策からは、フルシチョフへの強烈な嫉妬心が感じられます。
1953年にソ連の最高指導者になったフルシチョフは、1956年に「スターリン批判」を始め、ソ連は個人独裁体制から集団指導体制へと舵を切りました。「ジュニアパートナー」と見ていた中国に対しても、フルシチョフはスターリン主義との決別を求め、これを受けた中国共産党は、中国共産党規約から「毛沢東思想」の文言を削除し、個人崇拝を禁止しました。
当時、毛沢東は「百花斉放百家争鳴(人民からのありとあらゆる主張を受け入れる)」を提唱し、共産党への批判も歓迎するとしましたが、批判が大きくなると今度は態度を一変させ、共産党を批判した人を「反革命分子」「右派分子」などと呼んで弾圧し始めた。50万人と言われる学生や知識人が、思想を「矯正する」として地方に送られ、強制労働を課されました。