震災の当日にラジオが果たした役割とは(イメージ)
2011年3月11日の東日本大震災の発生から今年3月で14年が経つ。東北地方三陸沖を震源とする地震は、日本観測史上最大のマグニチュード9.0で、死者・行方不明者が2万2200人以上にのぼる大災害となった。このとき、メディアの現場では何が起きていて、はどのような役割を果たしたのか。
ニッポン放送の番組プロデューサー・冨山雄一氏は、「報道機関としてのラジオ局のあり方を考えさせられる出来事だった」と振り返る。冨山氏の著書『今、ラジオ全盛期。』(クロスメディア・パブリッシング)より、震災当時、ラジオ局で何が起こっていたかを解き明かす。(同書を一部抜粋して再構成
【全2回の第1回】
通常の放送、CMなどをすべて中止し、災害の情報を最優先に
2011年3月11日(金)、14時46分に発生した「東日本大震災」。マグニチュード9.0という未曽有の記録となった大災害は、ラジオの存在意義を見つめ直すきっかけとなりました。
ラジオ特有の「広く浅く」ではなく「狭く深く」届けるという特性、また、乾電池さえあれば、数十時間聴くことができる利便性など、災害時・緊急時にこそ発揮される、ラジオのメディアとしての価値を再認識できる場面にいくつも触れ、自分のやるべきことがより明確になったような気がしました。
少々長くなりますが、記録の意味も込めて、当時の行動と僕なりの気づきを記しておきたいと思います。
2011年3月11日(金)、この日の朝、僕は千葉県四街道市にあるパン屋さん「石窯パン工房 ル・マタン四街道店」にいました。
ニッポン放送の平日午前中の番組「垣花正 あなたとハッピー!」で、リスナーを集めての公開生放送を行っていたのです。番組レギュラーの演歌歌手・山内惠介さんの出演もあり、生放送に600人を超えるリスナーの方が集まり大盛況。達成感をお土産に、14時過ぎに有楽町にあるニッポン放送に帰ってきました。
会社に戻るとそのまま、7階の仮眠室で仮眠に入りました。実は2日後の3月13日(日)から、当時担当していた番組「坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD」でハワイツアーの企画が控えていたのです。250人のリスナーの皆さんと一緒にハワイへ行って、現地で公開収録を行うという夢のような企画が決まっていたのですが、公開収録の準備をまだ終えていなかったため、仮眠を取ってから集中して作業しようと体を横たえたところでした。
少しウトウトと眠りかけた14時46分、「ドンッ!」という衝撃音と共にベッドから飛び起きました。東京都千代田区有楽町は震度5強の揺れ。仮眠室を出たところにある医務室では、社員のカルテというカルテがロッカーから飛び出し、きれいに仕分けしてある薬が全部飛び出していました。
これは尋常な事態ではないと察し、緊急停止したエレベーターを横目に、階段を使って生放送のスタジオがある4階へと降りました。これまで経験のない震度5強という揺れを受けて、放送も地震対応の中でもハイレベルな放送対応に切り替わっていました。
通常の放送、CMなどをすべて中止し、災害の情報を最優先で伝え続ける放送です。スタジオでは、普段金曜日の午後を担当している上柳昌彦アナウンサーが、緊迫した表情で次々と入ってくる地震の最新情報を読みあげていました。そして千葉・茨城・神奈川のリスナーへ向けて津波警報が発令されていたので、今すぐ沿岸部から避難するように必死に呼びかけていました。