歴史作家の島崎晋氏が、「投資」という観点から日本史を読み解くプレミアム連載「投資の日本史」。古代の日本は国家としての形を整える過程で、大陸の先進的な制度や文物を貪欲に取り入れてきた。今日、その成果は飛鳥・奈良・平安時代を通じて建立された仏教寺院や仏像、正倉院に伝わる国際色豊かな宝物などを通じて目にすることができる。その主な導入手段・ルートとなったのが、遣隋使や遣唐使として知られる外交使節や留学生らの派遣だ。遭難率4割というハイリスクな航海だったが、そのリスクを低減するためにどのような措置を取っていたのか。そして、そこまでして得たかったリターンとはなんだったのか。(第2回)
目次
仏教、儒学、漢字、律令制度……。古代中国や朝鮮半島を通じて日本にもたらされた文物や制度は数多い。しかし、日中間の公式使節の往来に目を向ければ、2000年前から連綿と継続されたわけではなく、中断期間が何度もあった。俗に言う「倭の五王」は官爵の授与を目的に高い頻度で遣使を重ねたと中国の歴史書は伝えるが、おそらく、「都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事」に代表される、ものものしい肩書が何ら神通力を発揮しないなど、投資に見合うメリットが見出せなくなったことから、西暦478年の出航を最後に、遣使を取り止めにした。
中国大陸との公式往来が復活したのはそれから120余年後のことで、復活の背後には東アジア情勢の緊迫があった。
緊迫の中心にあったのは朝鮮半島と中国大陸である。朝鮮半島では高句麗、百済、新羅、伽耶諸国による均衡が完全に崩壊して、562年には伽耶全域が新羅に併呑された。一方の中国大陸では北朝の隋が南朝の陳を滅ぼした(589年)ことにより、4世紀初頭より続いた分裂の時代に終止符が打たれた。隋という超大国の出現は東アジア全域に衝撃を与えずにはおかず、594年には新羅が公式の使節を派遣し、名目的とはいえ、君臣関係を結んでいた。
『隋書』に残る第1回遣隋使の記録「はなはだ義理無し」
当時の倭国は推古天皇の御代。政治運営は上宮王(聖徳太子)と蘇我馬子の二人三脚で行われ、外交では百済を後押ししながら高句麗とも良好な関係を維持する方針が貫かれていた。それだけに、隋という超大国の出現と新羅がいち早くそれになびいたことは看過できず、倭国の安全保障の点からも、隋の実情を早急に確認する必要が生じた。そこで実施されたのが西暦600年の第1回遣隋使の派遣だった。
日本最初の正史(国家が公式に編纂させた歴史書)の『日本書紀』には第1回遣隋使に関する記述がないが、唐代初期に編纂された『隋書』「東夷伝」中の「倭国の条」には、倭国の政治について説明したところに、隋の文帝から「はなはだ義理無し(まったく道理に合わない)」と呆れられことが記されている。
古代王権論や都城制成立過程を専門とする仁藤敦史(国立歴史民俗博物館教授)は著書『NHKさかのぼり日本史(10)奈良・飛鳥 “都”がつくる古代国家』(NHK出版)の中で、帰朝報告を受けた推古天皇らは、〈自分たちのやり方がまったく国際社会に通用せず、礼儀にもかなっていなかったことを思い知らされた〉、〈この屈辱を跳ね返すために、また超大国の誕生によって新たな力学が生まれつつある東アジアの中で後れを取らないためにも、推古天皇は国際的に通用する政治や施設や儀礼を整えねばならないと必死になった〉と推測する。
それまでの豊浦宮(とゆらのみや)に代わる小墾田宮(おはりだのみや)の建設(いずれも推古天皇の皇居)や、冠位十二階および憲法十七条の制定などが、具体的なリアクションの嚆矢と言うわけである。
遣隋使の派遣回数は『日本書紀』によれば4回、『隋書』によれば6回を数えるが、古代史の中でも律令制度を専門とする吉川真司(京都大学名誉教授)は著書『飛鳥の都 シリーズ日本古代史(3)』(岩波新書)の中で、推古天皇が来日した隋の国使に伝えた要望を根拠に、〈第2回次遣隋使は明確な目的を掲げていた。新興大国隋から仏法と礼儀を学ぶことである〉と断言する。
ここで言う「礼儀」は礼儀作法の意味に留まらず、上下関係を可視化する儒教的な社会規範全体を指している。新しい国造りに必要と判断されたからで、仏法にも同じ役割が期待されたと考えられる。