1992年に北京に登場したマクドナルドには、初日だけで1万人以上が訪れたという(Getty Images)
2000年代以降、急成長を遂げた中国企業は数知れない。社会主義を掲げる中国で、なぜグローバル市場経済のプレイヤーがこれほど大きく育ったのか。そのきっかけとなったのが「改革開放」だった。1980~90年代当時の「改革開放の熱気」とはどのようなものだったのかを中国に関する多数の著作がある社会学者の橋爪大三郎氏と元朝日新聞北京特派員のジャーナリストでキヤノングローバル戦略研究所上席研究員の峯村健司氏が解説していく(共著『あぶない中国共産党』より一部抜粋、再構成)。【シリーズの第23回。文中一部敬称略】
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橋爪:改革開放というものについて考えてみたいと思います。実は、こんなに不思議なものはない。本来ありえない政策なんです。
「経済特区」というものをつくって、関税をかけないで外国から原料を輸入し、加工して輸出する仕組みにした。
農村では「家族請負制」を始めた。目標の収穫量を納めたら、残りは自由市場で販売していい。どんな作物をつくるかも農民が決めていい。そこで、人民公社は解体することになった。社会主義の幕引きです。農民はがぜんやる気を出して、収穫量も何割か増えた。
それから「商品経済」の名目で、市場経済をやり始めた。マルクス主義では、重要な資源の生産や流通は、国家が管理して数量や価格を指令する「計画経済」が原則です。中国もそれをやっていた。いっぽう、食糧や日用品は現物配給制ですが、ごく一部の消費財に限って消費者が自由に購入できる「商品経済」も認められていた。この商品経済の部分を、どんどん拡大することにした。
計画経済の大枠のなかに、商品経済があってもいい。これを「鳥かご論」と言います。でもだんだん、商品経済が大きくなって、鳥かごに入り切らなくなっていく。
計画経済の反対概念は、市場経済です。マルクス主義で「市場経済」と言えば、資本主義経済と同義です。資本主義の定義は、生産物の市場に加えて、すべての生産要素(土地・労働・資本)の市場があること。市場を通じて資源を配分する。計画の要素はありません。改革開放の初期には「市場経済」は禁句で、怖くて誰も口にできなかった。でも「商品経済」なら、自由に議論できた。