燃える中国軍装甲車(1989年6月撮影。AFP=時事)
学生や市民に銃口を向けた
橋爪:では、どうするか。鄧小平は、ここが踏ん張りどころで、党の権威を維持しなければ中国の将来はないと考えた。それには、人民解放軍の手で学生を弾圧する。銃を向けてもいい、血が流れてもいい、犠牲があっても仕方がない。
そして、天安門の学生だけではなく、中国じゅうの知識人や党員を検査して再教育し、二度とこういうことが起きないように監視する、と決めたのだと思います。
毛沢東とどこが違うか。毛沢東はたしかにいろいろな運動を発動して、大勢の人が死にました。でも軍が直接、学生や市民に銃を向けた事件はない。鄧小平の起こした天安門事件は、過去になかったとんでもない事件です。
なぜそこまでの恐怖を鄧小平が抱いたか。1978年に始まった改革開放が、中国の民衆に大きな変化を与えたからです。政治的自由、共産党体制からの離脱、西欧流の民主主義への移行を求める人びとが大勢現われた。鄧小平は、絶対に許容できないと思った。それが、党の総意になったのだと思います。
峯村:若干付け加えると、鄧小平がすぐに戒厳令を敷いて、銃口を向ける決定をしたとよく言われますが、当時の関係者に話を聞くと、鄧小平を含めた共産党の内部で意見が割れていたというのが真相のようです。
鄧小平が戒厳令を布告する3日前の5月16日には、趙紫陽、李鵬、胡啓立、喬石、姚依林の五人による政治局常務委員会が開かれました。この席上、改革派の趙紫陽と胡啓立が戒厳令に反対し、保守派の李鵬と姚依林が賛成しました。残る喬石はどちらかというとリベラルで、中立的な意見を述べました。つまり、党最高指導部の意見は真っ二つに割れたのです。
中国共産党の中でも迷いがあった点は、非常に重要だと思います。軍による弾圧は決して英断ではなかったし、だからこそ総括もできない。そして何よりも事件の存在すらもまだ認めていない。総括しようとすれば、党の判断の誤りを認めなければならなくなるからです。