「天安門事件」の真相とは(1989年6月撮影。AFP=時事)
1989年6月4日、中国・北京の天安門広場に集まった学生や市民らを、人民解放軍が武力で排除するという大事件が起こった。しかし、中国政府は事件に関わる言葉を「禁止ワード」にし、その詳細や犠牲者数すら明らかにしていない。中国共産党統治の暗部である「天安門事件」の実態とはどのようなものだったのか。中国に関する多数の著作がある社会学者の橋爪大三郎氏と元朝日新聞北京特派員のジャーナリストでキヤノングローバル戦略研究所上席研究員の峯村健司氏が紐解く(共著『あぶない中国共産党』より一部抜粋、再構成)。【シリーズの第25回。文中一部敬称略】
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橋爪:1989年6月4日の天安門事件は現代中国の分かれ目ですね。もしあの事件が起きなければ、いまの中国共産党は存在しなかったかもしれない。習近平体制も、天安門事件あればこそとも言えます。
峯村:政治の近代化や、自由や民主化を求める学生や市民の動きを潰したのが鄧小平です。民主化を進めるために、胡耀邦を党中央委員会総書記に抜擢しておきながら、最後は民主化要求を行なった学生たちに対して軟弱な態度を取ったということで、クビを切った。鄧小平は基本的にはきわめて保守だったのだと思います。
橋爪:事件の数か月前から、改革派のリーダー格だった胡耀邦元総書記の急死を悼む学生らが、天安門広場で座り込みを続けていました。事態の収拾をはかろうと、趙紫陽ら幹部が学生と会って話し合いました。でも、学生と妥協する姿勢は危険だと、鄧小平は趙紫陽を切り捨て、学生を武力で弾圧することを決めたのです。
鄧小平らが何を心配していたか。この運動の背後にはアメリカがいて、中国の政治的混乱や体制の転覆を図っていると、どうやら本気で疑っていたのです。
峯村:中国側は、天安門事件が「CIAの陰謀」だと完全に信じていたとみられます。中国共産党からみれば、東欧、ソ連の崩壊と同じ流れであり、学生の民主化要求の名を借りて体制転換を目指していると捉えていました。