高度経済成長期に「ペンタゴン経営」と称される多角化を推進し、業績を急激に伸ばしたカネボウ。だが、バブル崩壊による業績悪化、そして粉飾決算問題が明るみに出ていく中でカネボウは2007年に解散し、事業は分離された。その中で日用品、薬品、食品の3事業は「クラシエ」と社名を変え、それぞれの市場で戦っている。クラシエホールディングスの岩倉昌弘社長は、どんな勝ち残り戦略を描くのか。
――このシリーズではまず、平成元年(1989年)当時を伺っています。
岩倉:私が鐘紡(後にカネボウ)に入社したのは1985年ですが、世のイメージ的に鐘紡といえば「カネボウ化粧品」という時代で、私としても化粧品会社に入ったつもりでした。ところが配属は日用品を扱うホームプロダクツの販売会社。それ以来、ずっと日用品畑です。
1989年は大阪支店で営業を担当しておりましたが、この年に化粧品本部の中の一事業だった日用品ビジネスが、カネボウホームプロダクツ本部となりました。
――志望通りではなかった。
岩倉:当時はムダ毛処理剤の『エピラット』(1983年発売)や、入浴剤の『旅の宿』(1986年発売)といったヒット商品はあったものの、大型ブランドがなかったので取引先に商談に行っても面会を後回しにされることも多かったです。ブランド力をカバーするために価格訴求に走りがちで、特売商品ばかりになっていました。競合大手からヒット商品が出ると追随商品で対抗することも多く、“マネボウ”と揶揄されたりもしました。
――柱になる商品はいつ頃出てきた?
岩倉:1994年に発売した、植物素材を使用したボディソープ『ナイーブ』が大きかったと思います。販売が飛躍的に伸びた最大の要因は、詰め替えのパウチタイプを先駆けて投入したことでした。詰め替え用は価格が安くなるので、大手メーカーは発売に二の足を踏んでいたのですが、当社では一気に詰め替え品を拡大していったのです。
――しかし、カネボウは粉飾決算を繰り返して破綻します。
岩倉:ホームプロダクツ本部は比較的順調でしたが、カネボウという会社全体で見ると、売上や利益の数字を無理やり作っていくことに明け暮れ、商品の出荷や在庫も正常な状態からかけ離れたものになっていきました。やがて賞与が払えなくなり、給料カットにも及んでいったことで、さすがに「もうダメだろうな」という思いが募りましたが、そんな窮状下でも管理職たちは「ウチは国策企業だから、潰したら大変な問題になる。必ず国が支援する」と楽観的に考えていたのでしょう。
結果、繊維事業の一部はKBセーレンさんに、化粧品事業は花王さんに渡り、日用品・薬品・食品の3事業はクラシエとして再出発しました。「カネボウ」というブランドはなくなりましたが、『ナイーブ』やシャンプーの『いち髪』、基礎化粧品の『肌美精』など、ブランド自体が棄損したわけではありませんから、新会社は「頑張ればなんとかなる」という気持ちはありましたね。