旧統一教会と政治家との関係に注目が集まる昨今。普通の生活をしている人にとって、新興宗教との接点はどこにあるのか。『女性セブン』の名物ライター“オバ記者”こと野原広子さんが、これまでの人生の中で、自身と家族が接した新興宗教の思い出を振り返る。【全3回の第1回】
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ここのところ、マスコミがしきりに「世界平和統一家庭連合(旧統一教会)」を取り上げているけど、30年以上前の映像が流れ出すと、妙に懐かしい気持ちになる。
1990年代初め、30代の私は自分が老いることなんか考えもしなかったし、時代もバブルの残り香があちこちに漂っていて、よくも悪くもイケイケ。思えば、私はそのときの勢いでこれまで突っ走ってきた気もする。
そんな私の足がピタリと止まったのが今年3月。母ちゃんが93才で亡くなってからだ。人の命に限りがあることを初めて実感し、死が身近なものになったのよ。
4年前にも弟や義父を見送っているから、身内の死に接するのは初めてではないんだけど、茨城の実家で枕を並べて寝起きを共にし、介護に明け暮れた母の死はそれと同じじゃないんだよね。悲しみというより、自分の体の一部がもぎ取られたような喪失感。これがなかなか埋まらないんだわ。それで、「そうか、こういうときに人は宗教が視界に入るのか」と、65才にして初めて合点がいった。
だけど、問題はここから。
母ちゃんの顔を思い出すと、何ものかに頭を垂れるようなしおらしい気持ちが一瞬にして消え去って、ガハハハと笑い出したくなる。そして、笑いながら泣きたくなる。
というのも、母ちゃんは仏壇に線香をあげたり花を供えたりはするけれど、新興宗教は大嫌い。その嫌い方も半端じゃなくて、新興宗教の話になると火がついたように、ここでは書けないような罵倒を始めるんだわ。
「バチが当たれば太鼓で返せ」が口癖で、それを聞くたびに「ドドーン!」と太鼓の音が聞こえる気がしたけど、いやいや違うでしょ。“こんなことをしたらバチが当たる。だから、これを信仰しなさい”というのが宗教で、戒律を茶化したら宗教は成り立たないでしょ、と私は思うわけ。
それにしても、母ちゃんがなぜ新興宗教を嫌うのか。実はその原体験を私は見ているんだよね。