電通は日本のいち広告代理店でありながら、五輪からサッカーW杯、WBCまであらゆるスポーツ利権を手中に収める。なぜ、いつから、どうやっていまの地位に上り詰めたのか──巨大権力の源泉と行く末を探る。【前後編の前編】
東京・汐留にそびえたつ電通の本社ビル。
2022年は広告業界のガリバーにとって屈辱の1年となった。7月と11月、東京地検特捜部などが2度にわたって電通本社を家宅捜索したのだ。
容疑はいずれも東京五輪を巡るもの。最初の家宅捜索は東京五輪・パラリンピック組織委員会の理事だった電通元専務・高橋治之氏の受託収賄容疑に関連し、2度目は組織委員会が発注したテスト大会での談合疑惑だ。スポーツジャーナリストの谷口源太郎氏が語る。
「この短期間で本社に2度も家宅捜索が入ったのは異例です。特捜部の本気度が窺える」
司直の捜査で浮かび上がるのは、五輪という世界規模のスポーツイベントを支配する電通の姿だ。この巨大な権力は、いつ生まれたのか。
電通は1901年にニュース配信会社・日本広告として設立され、のちに広告専業会社となり、1955年に社名を現在の名に改めている。
1973年に広告年間取扱高で世界一に輝いた電通が最初に手がけた大きなスポーツイベントは、1977年に国立競技場で行なわれたサッカーブラジル代表選手のペレの引退試合。スポーツ文化評論家の玉木正之氏が語る。
「この時の仕掛け人が電通の元常務・服部庸一氏です。当時はプロ野球や大相撲しかスポーツ興行がないなか、服部氏は“神様”と言われたペレを目玉とする興行を打ち、サッカー不毛の時代に7万人の大観衆を集めました」
人々の興味を引くため、「ペレ・サヨナラゲーム・イン・ジャパン」と銘打ち、飲料メーカーとスポンサー契約を結んでテレビ中継した。現代に通じる手法を駆使した一戦は、のちに電通が十八番とするスポーツマーケティングの礎となった。