この時、服部氏の背中をじっと見つめていたのが、当時電通の社員だった高橋治之氏だ。
「高橋氏は上司である服部氏を見てビジネスを学びました。ペレの試合の大成功をきっかけに電通は、1979年に日本で開催された第2回サッカーワールドユース大会の運営を担い、1981年からトヨタカップに関わるようになった。この過程で台頭した高橋氏はFIFA(国際サッカー連盟)のゼップ・ブラッター前会長をはじめとする世界のサッカー界の重鎮とのつながりを深めました」(玉木氏)
その後、電通が目をつけたのが五輪だった。谷口氏が語る。
「1984年のロス五輪で実業家のピーター・ユベロス氏が大会組織委員長に就任しました。彼が五輪を商業主義路線へと導くなか、大きな柱となったのがスポンサーシップの確立。参加企業を集めて資金を獲得し、大会の運営費に使うという大規模なシステムです。そこに日本企業を一手に引き連れて“参戦”し、組織委員会とのスポンサー契約を仲介したのが電通でした」
当時の電通の偉業として有名なのが、富士写真フイルム(現・富士フイルム)との電撃契約だ。
「地元アメリカの企業、コダックがスポンサー契約を渋っていたところ、隙を狙った電通が電光石火の早業で富士と700万ドルのスポンサー契約を結んだといわれています。代理店が五輪ビジネスで大きな役割を果たしたのは世界初でした」(谷口氏)
さらに電通は、日本でのエンブレムやマスコットキャラクターの使用許諾権などの独占契約を組織委員会と締結した。
以降、「電通に頼まなければ五輪ビジネスは成功しない」との常識が、国内に浸透していった。
東京五輪で国内のスポンサー集めを担った電通は、国内スポンサー68社、総額3761億円の協賛金をかき集めた。これは過去最高額とされる2012年のロンドン五輪の3倍で、組織委員会には約150人の電通関係者を出向させた。ノンフィクション作家で元博報堂社員の本間龍氏が指摘する。
「組織委員会を電通が牛耳った結果として数々の不正が生じました。受注も発注も電通が仕切るのだから談合が生じるのは当たり前です。電通が五輪を管理する権力を握ったことで、相互監視の目が働かなかった」
(後編に続く)
※週刊ポスト2022年12月23日号