――公職に就く者に対して、その言動が倫理・道徳に反しているという理由で辞職(キャンセル)を求める運動のことですね。
橘:日本でキャンセルカルチャーの到来を告げたイベントが東京五輪で、エンブレムのデザインの盗用疑惑、森喜朗大会組織委員長の女性蔑視発言、演出統括者が女性タレントを「ブタ」にたとえたり、演出を担当したお笑いタレントが過去にホロコーストをコントのネタにしていたとして辞任・解任されるなど、多くのキャンセル騒動が起きました。
そのなかでもミュージシャン小山田圭吾氏に対する、過去のいじめを語った雑誌インタビューを理由としたバッシングは、音楽家としての「社会的存在」を抹消するかのような大規模な「炎上」を引き起こしました。この事例については本書で検証していますが、小山田氏にまったく非がないとはいえないものの、あそこまでの批判を浴びる理由があったかは疑問です。
芸能人の不倫報道なども同じですが、大衆は自分たちの正義感覚と照らし合わせて、「不道徳」と感じた者を直感的に攻撃します。そもそも人間の脳は、不道徳な者を罰すると報酬系が刺激されて快感を得るようにプログラムされている。他者を糾弾することは、社会的・経済的な地位に関係なく誰でもできるし、SNSはそれを匿名かつローコストで行なうことを可能にしました。「正義」が最大の娯楽であるからこそ、SNSで「不道徳エンタテインメント」が盛り上がるわけです。
レフトとリベラルが対立するトランスジェンダー問題
――それが世界中で起こっている、ということでしょうか。
橘:芸能人の不倫から回転寿司店で醤油差しをなめる行為、あるいはビッグモーターの不正事件まで、いまの日本におけるキャンセル事例はほとんどが「不道徳エンタテインメント」で説明できるでしょうが、狭義の意味でのキャンセルカルチャーは、レフト(左派)によるリベラルへのキャンセルという新しい現象を指します。さらには、レフト同士の衝突まで起きている。その象徴がトランスジェンダー問題です。
トランス女性が女性用トイレを使用できるのかという問題は、日本では「保守派」と「リベラル」の対立として報じられていますが、こうした枠組みではなにが起きているかを正しく理解できません。トランスジェンダー問題の特徴は、一部の(ラディカルな)フェミニストとトランス活動家が対立していることで、保守派はこの混乱を利用してトランスジェンダーに対する不安を煽っています。
『ハリー・ポッター』シリーズのJ.K.ローリングはリベラルなフェミニストですが、性自認だけでトランス女性が公衆トイレや更衣室を利用することに異議を述べたことで、「TERF(トランス排除的ラディカルフェミニスト)」のレッテルを貼られてキャンセルされました。トランスジェンダーの権利を擁護するのがリベラルで、それを認めないのは保守派・右翼だという単純な理解では、ローリングがキャンセルされるに至る経緯を説明できないでしょう(この背景はかなり複雑なので本を読んでください)。
問題は、「ファスト社会」のメディアが、複雑な社会現象を複雑なものとして説明することができないからでしょう。ひとびとが求めるのは、直感的に理解できる善悪二元論のエンタテインメントなのです。