中国正史「姦臣伝」の教訓
北宋(960〜1127)以降、皇帝への権力集中が強化されたことから、政務に熱心でない皇帝の治世では、それを良いことに、専制や極端な金儲けに走る重臣が少なからず現われた。中国の正史(国家から正当と認められた歴史書)には「姦臣伝」という項目があり、現在のわれわれでも、容易にその具体例を見つけることができる。ここでは北宋の蔡京(1047〜1126)を取り上げてみたい。
蔡京は北宋7代目の哲宗(在位1085〜1100)と8代目の徽宗(在位1100〜1125)に宰相として仕えた人物。『三国志演義』『西遊記』『金瓶梅』と並ぶ中国四大奇書の一つ『水滸伝』では、「四姦」という四大悪役の一人として描かれている。
物語中の悪事の大半は虚構だが、蔡京とその一味が贅沢きわまる生活を送っていたことは事実だった。最大の財源は賄賂だが、それ以外にも給与の不正受給や塩の専売商人に手形の二重購入を強制したり、貨幣の悪鋳により生じた差額の利鞘を懐に入れるなど、彼らの欲は金銭の匂いのするあらゆる場所に及んだ。
蔡京とその一味は散財も激しく、その影響で都の開封に好景気がもたらされるが、それは束の間に終わる。彼らの一連の不正は、中長期的には国家財政の首を絞める行為になった。国家財政はガタガタ、民心も朝廷から離れた状況では国防体制にほころびが生じるのも無理はない。ツングース系の女真(ジュシェン)族からなる金軍に城下まで迫られると、屈辱的な和議に応じるしかなかった。
徽宗が責任を取る形で子の欽宗(在位1125〜1127)に譲位すると、蔡京とその一味にも終わりがきた。官位剥奪とそれぞれ別地方への追放蟄居が命じられたのである。追って処刑人が派遣され、蔡京の子息や兄弟および一味の者は一人残らず、指定の地に到着するより前に斬首された。
肝心の蔡京は配流先を次々と変更され、最終的には南シナ海に浮かぶ海南島へ行くよう命じられるが、80歳の老人に囚人としての長旅は拷問に近く、たどり着く前に絶命した。