天安門事件の2日後、天安門広場の北側を東西に走る長安街で警戒に当たる中国軍戦車部隊(1989年6月撮影。AFP=時事)
民主化を求める学生や市民に銃口を向け、中国共産党が武力弾圧した1989年6月4日の「天安門事件」。事件後、各国が中国を非難し厳しい経済制裁を課すなかで、いち早く制裁解除に動いたのが日本だった。中国に関する多数の著作がある社会学者の橋爪大三郎氏と元朝日新聞北京特派員のジャーナリストでキヤノングローバル戦略研究所上席研究員の峯村健司氏が当時の日本の“失策”を紐解いていく(共著『あぶない中国共産党』より一部抜粋、再構成)。【シリーズの第26回。文中一部敬称略】
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峯村:天安門事件に関し、中国がそもそも犠牲になった学生の人数すら明らかにしていないのはとんでもない話です。私が北京特派員の時、事件で犠牲となった学生の遺族に話を聞きに行こうとすると、当局に妨害されることがしばしばありました。
胡錦濤前政権下では、事件を「再評価」する動きがありましたが、大きな流れにはなりませんでした。では、習近平が天安門事件をどのように評価しているか。内部の演説などを読む限り、「政治的騒乱」、つまり天安門事件を武力で弾圧した党中央の決断を高く評価しているのです。鄧小平の「数少ない成果のひとつ」と習近平がみていることが重要です。
ではなぜ、習近平は天安門事件での鄧小平の対応を肯定的に評価したのか。
事件当時、習近平は福建省寧徳市トップの書記でした。私が現地で当時の習近平の同僚、部下にインタビューしたところ、事件当時は上海でも学生運動が盛り上がり、福建省にもその一部が流れ込んできて、結構緊迫した状況に追い込まれたそうです。
福建省における学生らの運動が過激化した場合、ひょっとしたら習近平自身も政治的なダメージを受けていた可能性があった。その際、党中央が天安門の学生たちを力で抑えたことで自分の命が助かった、そんなふうに習近平は思ったのではないでしょうか。